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【特番】この街は戦場だった ~一宮空襲から75年、市民の記憶~

2020.09.04

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<↑番組CMはこちらから>



 戦争は沖縄や中国大陸、南方の島々だけの出来事ではない。私たちの住む街も戦場だった。
太平洋戦争末期の昭和20年7月、一宮市はアメリカ軍によって二度にわたる無差別爆撃を受けました。旧一宮市街地の約8割が焼失。住宅・公共機関・教育機関・神社仏閣・工場など、ありとあらゆるものが焼き尽くされ、当時の一宮市人口57,588人のうち、71%にあたる41,027人がり災し、727人が命を落としました。

 戦後75年。当時のことを語れる人達が少なくなりつつある反面、75年の歳月を経て体験者が重い口を開きつつあるのも、また事実です。
一宮市制100年を来年に控えた今、ICCでは当時を知る人たちの声を集め番組化することにしました。
一宮空襲を中心に当時の一宮を生きた人たちが、あの戦争にどのように関わり、傷つき、乗り越えてきたかを描きます。
この地域にとっての"あの戦争"を記録するのは、最後かもしれません。

放送日時

8月29日(土)・30日(日)13:00~

《再放送》9月5日(土)・6日(日)・19(土)・20(日)13:00~

放送チャンネル ICCチャンネル12

 


大日本紡績(戦災)3.jpg昭和18年 貯蓄目標幕.jpg昭和20年 焼跡より大宮を望む.jpg



【ディレクターからのコメント】

夏になると、戦争に関することがメディアで報じられます。
そこに出てくるのは、広島や長崎の原爆にまつわるもの、凄惨な地上戦が繰り広げられ沖縄県民の4分の1が犠牲になった沖縄戦のこと、中国や南方の島々のことがほとんど。
こういった戦争特番を見て私が思うことは、「太平洋戦争の戦場は、特番で報じられる場所だけではない」ということ。地域メディアでカメラを手に取材する身として、この思いはずっとありました。

一宮市は太平洋戦争のころ、戦闘機をつくる軍需工場があったこと、繊維工場の軍需転用が進んでいたことからアメリカ軍の攻撃目標になりました。
昭和20年7月、二度にわたってアメリカ軍による無差別爆撃にみまわれ、727人もの人がなくなりました。

当時のことを語っていただける人が少なくなっているのを日々肌感覚で感じていた私は、きちんと番組化し若い世代の皆さんにも知ってもらいたい、一宮市で本当にあったできごとを教科書半ページほどの伝承で済ませたくないという思いに背中を押され番組化することにしました。

空襲だけではありません。
学校では子どもたちが銃を手に軍事教練を受け、夫を戦地に送り出した妻たちは防空演習に駆り出され、いざという時は自分たちで空襲の火の手を消せと命じられました。
10代半ばの子どもが教師の勧めで志願の名のもと戦地に駆り出されました。
すべてが一宮市民が体験したことです。作り話ではありません。

番組取材に応じてくださった一宮空襲を生き抜いた方は「遺体が山のように積んであった」「目の前に焼夷弾が落ちてきた」「真清田神社の鳥居と市役所以外は、なんにもなかった」とカメラの前で話してくださいました。
予科練出身の方は「戦友が敵の機銃で打たれた。くちゃくちゃだった」と話してくださいました。
繰り返しますがすべて一宮市民が体験したことです。

取材に応じてくださった方々は「あの戦争のことを次の世代に伝える」という番組の趣旨に賛同し、カメラの前で記憶を掘り起こし語ってくださいました。
中には「思い出したくないんだよね。」と言いながらも自身の体験を語ってくださった方もいました。

番組には、戦争を知らない私たちの世代にとっては信じられないような話を数多く収めました。
NHKや民放では放送されることのない一宮市民が経験したあの戦争についてお送りします。

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